バッハの器楽曲

2007年8月26日
昔、音楽を聞き始めた頃からバッハは好きだった。学術的、音楽理論的、分析的にどうのこうのとか、そんなものは全く興味がなかったが、とにかくバッハの音楽がかかっていると気分的に落ち着くし癒される。自分のクラシックのレコードでは当然バッハのものが一番多く、次いでモーツアルト、チャイコフスキー、フォーレetc〜となる。

最近、グールドとリヒテルのCDを買った。グールドはパルティータとフランス組曲、リヒテルはプレリュードとフーガ、以上全曲集だ。だいたいが60年代から70年代の録音だが、もともとピアノソロなので、古い録音だが音は明確に聞こえる。ただし昨今のデジタル処理がしてあり、ノイズ低減がされている。残念なのはその処理のおかげで、耳に不快なノイズを生んでいることだ。もともとテープのヒスノイズならあっても構わない。少なくとも嫌らしい人工的なデジタル系のノイズよりよっぽどマシだ。曲中の演奏者のうなり声もかなり小さくなってるが、この処理のおかげで、付帯音が耳にさわる。もともとのヒスノイズや演奏者の発する声や椅子のきしむ音、鍵盤にさわるつめの音などは、低減させる必要のないものだ。技術者のセンスのなさが残念だ。

それはともかく、バッハのピアノ(チェンバロ)曲をかけると部屋の空気が一変する。目をつむるととても落ち着いた平和な気分にさせてくれる。モーツアルトの時代になると、ポリフォニックなものからひとつの明確なメロディを主体にアレンジされたホモフォニーの世界になり、より親しみやすい歌謡調になるが、聞いてるうちに曲(旋律)に支配されてしまいその時の気分で好き嫌いが限定されてしまうこととなる。バッハのようなポリフォニーの世界はそれがなく、いつでもBGMとしてさりげなく存在できるような気がする。かと言って安っぽいわけではない。追求していくと恐ろしく深遠な世界がひろがっているのだろう。しかしその世界に入らなくとも、心地よい安らぎにしたれる。音楽の中でも特別な存在なのだ。

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